昭和54年01月10日 朝の御理解



 御理解 第57節
 『金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。』

 昨日、池田先生親子がここにお礼に出て参りまして、前の日の福引きで恵子さんが「天地がバック」という札を引き当てた。確かに何人かあったでしょうけれど、そこの合楽食堂の中村さんが、やはり「天地がバック」というのであった。私はもう、このくらい心強い、気強いことはないと思うですね。どんな場合であっても天地がバック。わたくしがあの、いつでも、いうなら確信に満ちておれれるというのは、もう「合楽の場合は絶対天地がバックだ」ということを確信しておるからです。
 もう神様は、私のためにしか働いて下さらない。ね。ということは、んなら、中村さん、例えば昨日の恵子さんの場合なんかはですね、天地の親神様は、中村一家のためにしか働いて下さらん。恵子私自身のためにしか神様は働いて下さらん、ということにもなるわけ。だから、その確信が持てれた時始めて、神を杖についたという時じゃないでしょうかね。学院の永井肝四郎という、まあ合楽びいきの先生がおられます。学監までなさった方なんですけれども。
 大変まぁいうならば神徳、霊徳を、それで教学者でもあるという立派な先生なんです。それに、この合楽の先生が、この五十七節を説いておるこれを読まれてから「素晴らしい」と思われたということですね。私がその当時のここんとこ説いた時に、これだけたくさんのお道の信心しておるんだけれども、「金光様、天地金乃神様」と言うておるけれども、神を杖についていない。
 みんなが。ついていない証拠に、不平を言うたり、不足を言うたり、心配をしたり、イライラしておるじゃないかと。ね。「神を杖につけば楽じゃ」と仰るのだから、楽な心というものが、いわゆる絶対信がなからなければ、神を杖についとるとは言えない。「金光様のご信心は頂いております」と言うても、やはり、神を杖につかずに、竹や木や、それこそ金を杖についておる人がほとんどだ。
 ただ「金光様」とすがっておれば神を杖についとるということじゃない。というような、だから楽でないならあなたは、金光様の信心は頂いておっても、神を杖についてはいないのですよ、と言う様な御理解だったです。もういうならば、ぎりぎりの極言ですよね。「神を杖につけば楽じゃ」と仰せられるのに、楽ではない苦しい。心配不安人間心ばかりを使う。イライラしておる。もうこれは神を杖についとらん証拠じゃ。天地はもう私のために働いて下さるんだ。天地はいつも私のバックだ。ね。
 これが私言えれるところまでの信心ができた時に始めて、天地がバックだ。まあ何人かの人達がこれを引き当てたでしょうけれども、その中村さんとか、その池田先生達の場合はです、もうまさに天地がバックなんです、と言うていいわけなんです。だから天地がバックと言えるということはね、もう自分の一番大切なものを神様に捧げきっておるという時なんです。中村さん達でもそうでしょうが。ね。
 長男をお道の教師に捧げた。ね。だから、あんたお道の教師として、ほんとに一本立ちができるまでは、お母さんは、細々とでも、ただ、今の商売を続けて、もうこれで儲かろうとか、繁盛しようとかそんなことはない。とにかく、あんたが一人前になるまでは、これを細々と続けておく、というんだと思うんです。ね。それでもまあちょっと、例えば不安なことが起こってきても、ありましてもです。
 「いや、私の方は天地がバックだ」というふうな確信をいよいよ強うしていくところに、これからの中村さんの信心があろうとこう思うです。池田先生なんかの場合でもそうです。親子二人、親子二人って、実は三人おりますけど、姉さんは、別の所で働いとります。だから、結局、もう一切合切を、もう親子共々に神様へ捧げておるんですから、もうこれがほんとに、天地がバックということを思わなかったら、こんな寂しい、こんな悲しい苦しいことはなかろうと思うですね。
 けれどもね、神様へ捧げきったというところに、天地がバックという、いうならば確信がだんだんできてくるおかげ。いよいよ神を杖につけれる、おかげを頂かなければならんのだ。ね。捧げきった時に始めて、ほんとは、天地がバックだと言えれる。天地がバックだと言えれる時、あなたは神を杖についた時になるのだ、ということでございます。ね。そらもうほんとに、金は頼りにはならんです。いや、もう頼りにならんと言うよりもね、かえって害毒です。
 信心の伴わない財産というものは。そらもう周辺を見てご覧なさいって。ね。億万長者と、昔のなら例えば、今の時の億万長者はたいしたことないでしょうけど。まあ、億万長者と。そこの、なら子供が孫がどういうような状態になって行きつつあるか、ということを思うただけでもね、もう徳の伴わない財産ぐらい、ものぐらい危険なものはないです。もうほんなこて、ばい菌の付いたぼた餅残しとるようなもんです。
 だからお互い、みなさんがね、持っておられる財産を捧げなさいといのじゃないです。それの裏付けになる信心をしっかりしておきなさいと言うのです。ね。徳の裏付けのあるものでなからなければ、かえって弊害。ね。木や竹は折れると。はあ、もう何ちゅうんでしょうかね。「私は、ひとつの信念を持っておる」ね。というようなことを言うけどもその、ただそれは、ね、なるほどそれでやっていけれるんですけれども、いよいよの時に、直面した時にです、ただその信念だけではいかんです。
 ご無礼、信念ではない自信ですね。「私は、自分の腕に自信を持っておる」という自信ぐらい脆いものは実はないです。ね。自分で作る信心。信心をさせて頂いて、まあ今、今日の御理解頂くならば、天地がバックだ。私の場合にはいつも神様が、私を守護しぬいておって下さるんだと。天地がバックだと。天地の親神様に勝つものはない。どんな場合でも、天地がバックだと安心しておれれる。ね。それを信ずるところから生まれてくる信念。ね。これは強い。
 それこそ、「信ずる者を信ずる」と神様は仰せられてるですから。ね。気が強いとか、ね、素直だとか、ね、とにかく、あの人は良い人だ。神様のような人じゃ、仏様のような人じゃと、まあ自分でそう思うておるような人でも、それではおかげにはならん。ね。これはもう信心を頂かなければ、ね、天地の親神様のご信心を頂かなければ頂けないところだとこう思うのです。
 そればってん、金光様の信心しござるばってんが、二代・三代でもう毛も無いごと潰れておるところも、なら事実はたくさんあるということ。してみるとなら「金光様の信心しよったっちゃ、しよらんでも同じじゃないか」ということになってくる。ね。だから金光様の信心頂いておるからじゃない、信心頂いて何を頂くかというと、「神を杖につけばおれば楽じゃ」というところまでの神様を頂いておらなければダメ。ね。
 そういう信心を頂いておらなければ、なら金光様の信心頂いておっても同じだと言う事になります。そこでねそのまあお互い、段々合楽でご信心の稽古なさっておられる方達は、池田先生とか中村さんに限らず「ほんとに私は信心しておるから」ね。いうなら天地の親神様がバックだから。ね。と言う風に思い、またそれを信じておられる方もありましょうけれども、それをいよいよ完璧にするために、その信心の内容がね。
 私は今日、こういうことを頂いたんです。あっちの主人は、もう信心も熱心ですが、おかげを絶対落とさん内容を持っておるっちいう。ね。あっちの家内はね、もうおかげを頂くコツ合いを体得しておると。どうでしょうか。合楽で誰じゃろうと思うですか。ね。ご主人がね、もう絶対おかげを落とさんという内容を持っておる。と奥さんはもう絶対おかげを頂くコツ合いを体得しておる。もうこういうような信心が、これは私一人の上にでも頂けたら、私の信心はだいたいそうです。ね。
 おかげを頂くコツ合いを知ってるです。そして落としちゃならんという信心にも、いうなら「水も漏らさん」という今度のね、福引きじゃないけれども、様な所がいつも焦点になっておるです。だから夫婦揃うとらなければ、ということじゃないけれどもね、だから、家族勢を揃えて、例えば自分がこういう流儀の信心をするなら、また例えば家内がその裏の信心をしてくれるようなね、いうならば協力し合うた信心。ね。
 そういう信心ができたら、もう絶対間違いのない、ね、子に孫に伝わって行く様な信心になるでしょう。「はあ、あっちは素晴らしか」と言うても、ただおかげを頂くことだけは、見事に頂きなさるけれども、ね、その反面に、何かの時にはストッとおかげを落としなさる、と言った様なね、そんな人はまだたくさんあるんです。合楽には。そらまあおかげ頂く名人がおるです。かと思うと、あっという間に落として、結局はだから、堂々回り的なところしか通ってないという感じです。
 みなさん、自分達の信心を思うてみて、おかげを頂くコツ合い、ね、または、おかげを落とさんですむ信心。ね。そういう信心が足ろうて、お互いの心の中に育っていかなければいけないです。そこから生まれてくる、そこから言い得るところの、私は天地がバックと言えれるような信心を頂いた時に始めて、神を杖につくということになるのじゃないでしょうか。ね。第一不安がある心配、ね。というならば、まだ自分がほんとうに神を杖についていない証拠だと。
 神を杖につけば楽と仰せられるのに、楽でないならば、ほんとに神を杖についていない、ついとる時もありゃ、ついとらん時もあるというふうに悟らしてもろうて、いよいよ神を杖につかせて頂けれる信心。折れないですむ、曲がらんですむおかげを頂きたい。その内容としてです、ここではおかげを頂くコツ合いをね、教えてもらう。「こういうことではおかげを落とすよ」という、おかげをそれこそ水も漏らさんですむ信心。
 それを例えばどういうふうに言われるかというと、ね。心行・家業の行とこう。ね。心行・家業の行ができる。ね。日参・教聴。ね。そういう信心がいよいよできてきて始めて、神を杖につくということになる。ね。もう一切をいうなら神様に、ね、捧げきってそして任せるというところから、ね、それこそ「神を杖につくとはこういうことか」というように心強い、力強い生き方ができるようになる。ね。
 その内容を、なら自分はもう捧げきったから、もうじっとしておってよいかというのではなくて、とにかく、おかげを頂くコツ合いを体得していく、おかげを落とさんですむ信心を、ね、体得させて頂くと言う様にね、信心を進めて行かなきゃならん。どうぞみなさん、まあ一家で信心をなさっておられる方は、一家中で、ね。お互いの信心の個性をよく検討して、「お前はここが特徴だから、ここを進めていけ。」
 「私はここをいっちょ、いよいよほんとなものにしていこう」なら、お一人のご信心の方は、自分の心の内容の中に、そのまあ、陰というか陽というかね、その陰陽足ろうたおかげを落とさんですむ内容と、おかげを頂くコツ合いも、いよいよ体得していっておるというような信心に、新たな検討を加えて、いよいよ「神を杖につけば楽じゃ」というおかげ。「いや、私の場合は天地がバックだ」と確信できれれる信心をね、頂いて頂きたいと思う。
   どうぞ。